奈良時代に派遣された遣唐使の目的と遣隋使のかかわり

飛鳥時代から奈良時代、平安時代の約300年に渡り、当時の先進国だった中国の隋と唐の先進技術や文化を求めて、日本から遣隋使と遣唐使が派遣されています。

推古天皇の治世下で行われた遣隋使は、600年に初めて派遣されたことが中国の歴史書に記述されていて、2回目以降に派遣された小野妹子が隋の皇帝に聖徳太子が書いた国書を持参し、隋との国交を樹立しています。

618年に隋が滅びるまで派遣された4回の遣隋使に代わって、日本からは遣唐使が派遣されていますが、基本的な役割は変わっていません。

飛鳥時代から奈良時代に日本から派遣された遣隋使と遣唐使について紹介します。

遣隋使が派遣された目的は?

中国が「隋」だったときに日本から派遣されたのが遣隋使で、「隋」の滅亡によって誕生した「唐」に派遣されたのが遣唐使となっていて、当時の先進国だった中国の文化や技術を学び、日本に持ち帰ろうとしています。

遣隋使には、中国の文化や技術を日本に持ち帰る目的の他に、隋との「朝貢貿易」を築く目的がありました。

日本から隋の皇帝に貢物を送り、隋の皇帝からは貢ぎ物のお礼としてお宝が渡され、隋にとっては貢ぎ物を受け取ることで皇帝の権威が示されて日本からの攻撃の可能性を下げられ、貢ぎ物を渡す日本にとっても貢ぎ物よりも豪華なお宝が受け取れるメリットがあります。

摂政だった聖徳太子が書いた「日づるところの天子、書を日没するところの天子に致す」という文言が書かれた国書を、小野妹子が遣隋使として中国の皇帝に持参し、中国の皇帝を怒らせた事件が起き、その返信となる国書を紛失したとされていますが、翌年再度隋へ迎えていますので、不都合な内容を隠すために聖徳太子がでっち上げたデマの可能性が有力視される逸話も残されています。

隋が滅亡した後、中国に派遣された遣唐使

飛鳥時代に四回派遣された遣隋使は、隋の滅亡により遣唐使に代わり派遣され、菅原道真によって廃止されるまで約250年続いています。

630年に遣唐使が派遣された当初は日本と唐との関係は良好とはいえず、日本が朝鮮に百済の援軍として出兵し、唐と新羅の連合軍と戦った白村江の戦いもあったものの、遣唐使の派遣が日本と唐の関係改善の役割を果たしたともいえます。

特に、奈良時代を迎える直前に大宝律令が制定されると、頻繁に遣唐使が派遣されるようになり、鎮護国家を目指した奈良時代の歴代天皇が求める仏教に関わる経典など文化的なものを中心として、日本に持ち込まれています。

海を隔てた中国に派遣された遣隋使と遣唐使のいずれも、渡航には危険が伴い、空海と最澄が渡航した際も4隻のうち2隻がたどり着けず、途中で重病となれば、唐に置き去りとされたとも言われ、命がけの役割だったといえます。

奈良時代の遣唐使には、日本と唐の関係改善の目的が?

推古天皇の治世下で中国への派遣がはじまった遣隋使は、当時の先進国の中国から文化や技術を吸収するためと隋との朝貢貿易を行うという二つの目的がありました。

隋の滅亡によって誕生した唐との交流が継続される中、遣唐使の派遣には、遣隋使と同様に中国の文化や技術の吸収とともに、あまり良好でなかった日本と唐の関係を改善したといえます。

大宝律令の制定後に奈良時代となると、頻繁に遣唐使が派遣され、それまで以上に唐の仏教を中心とした文化が日本に取り入れられています。

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