奈良時代の仏教と政治のかかわり

710年に元明天皇により遷都された奈良の平城京は、唐の長安を手本として作られた都で、天皇の住居や各役所を都の北中央に配置し、宮と南側の羅城門を結ぶ朱雀大路を中心に左京と右京に区切り、南北を坊、東西を条として、碁盤目状に区切った都市形態を構築しています。

奈良時代となる少し前に制定された大宝律令によって、律令制による国家体制が確立され、蝦夷と隼人に対する政策が施されています。

仏教によって国の安定をはかろうとした飛鳥時代の天武天皇の思想を、奈良時代の政治で聖武天皇が、東大寺と大仏を作ることで具現化しようとしています。

聖武天皇が、奈良時代の政治に仏教によって国を安定させようとした鎮護国家思想などについて紹介します。

平城京へと都が移される前の状況は?

奈良時代となる前に、7世紀の半ばに起きた朝鮮半島で起きた戦乱で滅んだ百済の復活のために、日本は新羅と唐の連合軍と「白村江の戦い」と呼ばれる戦争をしますが、新羅と唐の連合軍に負けた日本は、中大兄皇子が唐と新羅の攻撃に備えた防人や防衛拠点を九州北部に複数箇所作り、日本国内の強化をはかっています。

日本国内の統治強化のために、都を近江の大津宮に遷都し、近江令により日本初の庚午年籍と呼ばれる戸籍が作られます。

その後、710年に奈良の平城京へと都が移される前の701年に、文武天皇によって大宝律令が制定され、天皇を頂点とした二官八省の行政組織がつくられます。

古代国家から律令制に基づいた国家体制へと移行した奈良時代は、政治や文化、仏教など多くの分野で模範とした中国の唐の影響を受けています。

奈良時代の政治に影響を与えた仏教

仏教が奈良時代の政治に影響を与えたのは、8世紀中頃に流行した伝染病や災害、貴族の争いなどが起き、これらを鎮静化するために、聖武天皇が諸国に国分寺と国分尼寺を建立させ、都には総取締の東大寺を立てて、本尊となる大仏像の建立を発願しています。

聖武天皇が、仏教を深く信仰していたために、仏教によって国を安定化させようとした「鎮護国家思想」を具現化した東大寺や大仏像の建立ですが、多額の費用が必要なことから、財政が悪化し、農民に課せられた重税により土地を捨てて逃げるものも現れています。

そのため、三世一身の法と呼ばれる新しく土地を開墾したものには、孫の代までの三世代にわたって土地の所有を認めますが、あまり効果がでず、墾田永年私財法に代わります。

聖武天皇の死後、道鏡という僧侶が政治に口を挟むようになり、天皇の権威も脅かしたため、和気清麻呂が防いでいます。

聖武天皇が推進した鎮護国家の政治は、仏教の保護と僧侶に対する統制のバランスによって成立していています。

奈良時代に具現化した仏教による鎮護国家の具現化

奈良時代の政治に仏教を利用して、日本国内の安定を図ろうとした聖武天皇は、東大寺、国分寺、国分尼寺、さらには奈良の大仏の建立を決めています。

仏の教えを守ることが、国の安定につながるとした鎮護国家の実現を目指した聖武天皇の政治は、財政の悪化をもたらし、三世一身の法、墾田永年私財法の制定を生み出します。

これにより、貴族や寺院、地方の豪族たちが私有地を保有し、のちの荘園を生み出しています。

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