奈良時代にペルシャ人の存在を記した木簡が発見された?

昨今の日本は、訪日外国人の人数が過去最高となったと伝えるニュースが流れ、海外へ出国する日本人も多くなりグローバル化が進んでいます。

現在のように交通手段が整っていたとはいえない奈良時代の日本も積極的に遣唐使が派遣され、中国大陸の唐や朝鮮半島からも多くの渡来人がやって来ていて、「続日本紀」には、ペルシャから日本へとやってきた人物が天皇に謁見した記述も確認されています。

今のイランに相当するペルシャとの交流は、正倉院に残された宝物の中に確認されたペルシャのガラス器などにも示されています。

それに加えて、2016年10月に奈良文化財研究所が、ペルシャ人を示す文字が書かれた木簡が発見されたと公表し、奈良時代の平城京にペルシャ人がいた可能性を明らかにしています。

平城京跡にペルシャ人がいたことを示す木簡が発見された?

昭和40年から昭和41年にかけて、奈良国立文化財研究所が行なった平城宮跡の発掘調査で一万点を超える木簡が発見されていましたが、当時の科学技術では読み取れなかった文字の判別が、最近の最先端技術により検証が可能となっています。

最新の赤外線検査によって、肉眼では見えなかった「破斯清通」という人名が確認され、「破斯」からペルシャ人と考えられています。

また、木簡の表側には、「大学寮解 申宿直官人事」「員外大属」「波斯」「破斯清通」「天平神護元年」という文字が読み取られ、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人の役人の宿直に関する勤務記録であると解釈されています。

当時のペルシャは、奈良時代には日本より進んだ科学知識を持ち、ヨーロッパや中国にも大きな影響を与えていて、奈良時代の聖武天皇が外国からの知識や文化を取り入れようとした姿勢が読み取れます。

平城京にペルシャ人の存在を記した書籍

木簡の文字を解読した奈良文化財研究所の発表を受け、奈良時代の平城京でペルシャ人が官吏として働いていたという報道がなされ、「破斯清通」は、大学寮の下級官吏だったと考えられ、海外の知識を生かすために特別枠で任命された特別職だったと考えられています。

また、平安時代に入って編纂された「続日本紀」には、736年に「唐の人三人、波斯人一人」が聖武天皇に謁見したと記述され、ペルシャ人の李密翳も他の遣唐使への叙位が行なわれた際に位が授けられています。

この叙位と木簡に記された年には30年ほどの隔たりがあり、「破斯清通」は、李密翳本人か、家族あるいは従者だった可能性が指摘されています。

奈良時代の聖武天皇が唐と仏教の影響を多大に受け、平城京があった奈良は国際色豊かな都だったことが想像されます。

奈良時代の日本がグローバルだったことを示す木簡

昭和40年に発見された奈良時代の木簡から、最新の赤外線検査によって「破斯」という二文字が読み取られたことで、平城京にペルシャ人がいた可能性を示唆し、奈良時代がグローバルな社会であったことを示しています。

シルクロードの終点に位置した奈良には、ペルシャとの関わりを示す宝物が正倉院にも残されており、人的交流もグローバルで行なわれていたことが、木簡に書かれた文字の解読により、奈良時代の新たな歴史の真相が明らかになりつつあります。

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