奈良時代にあった身分制度

奈良時代以前の大和朝廷政権では、天皇を中心とした豪族たちの血縁関係の集合体である「氏」を持つ者たちが、朝廷から政権内の地位を示す「姓」をもらい受ける「氏姓制度」がありました。

遣唐使の派遣で中国の唐で行われていた律令制を日本へ導入が7世紀後半から進み、645年には一般の人民を良民と賎民に大別する「良賤の法」が制定されます。

これにより、一般の人民は、良民と賎民に分けられ、さらに、良民は官人、公民、品部、雑戸に区分され、賎民は陵戸、官戸、家人、公奴婢/官奴婢、私奴婢に区分されています。

平城京に遷都される前に制定された大宝律令によって、奈良時代にも飛鳥時代から存在した身分制度が引き継がれます。

奈良時代に身分制度を設けることができた背景

奈良時代に分類された身分制度は、支配者階級と被支配階級の二層に分類されただけでなく、一般庶民も良民と賎民に大別し、それぞれで細分化されています。

平城京に遷都される前に制定された大宝律令によって、天皇を最高権力者とした律令国家体制が確立され、公地公民の制や戸籍の作成が行われ、税の徴収システムが構築されます。

一般の人々は、良民と賎民に分けられ、賎民は奴婢とも呼ばれる奴隷を意味し、男性の奴隷が奴、女の奴隷が婢とされ、売買されたと言われています。

一般の人民を管理するために戸籍が作られ、良民の大半は農民として管理され、政府が耕作させるための口分田と呼ばれる田を与えられ、収穫物から税を徴収されています。

奈良時代に作られた戸籍は、政府が住所や名前、世帯主などの情報を把握し、税を取ることが目的で、律令制の確立がこれらの制度の実施を可能としました。

奈良時代に制度化された賎民による影響

律令制度が確立した奈良時代には、前述のように、一般の人民が良民と賎民に大別され、賎民は「五色の賎」と呼ばれる五つに分けられた身分制度が取られています。

一般の良民には、口分田が与えられる一方で租庸調の納税義務に加え、防人と呼ばれる軍役の義務も貸されるにもかかわらず、特に権利があるわけでもありません。

陵戸、官戸、家人、公奴婢/官奴婢、私奴婢に区分された賎民は、天皇や皇族の陵墓の守衛や、官田の耕作、主家の雑用などを生業としながらも、逃亡が禁じられ、売買や質入れの対象となるなど、非人道的な扱いを受ける一方、良民よりも自由な生活ができたとも言われ、賎民を選択する者が続出しています。

奈良時代から中世になると、奈良時代の賎民制度も崩壊し、律令制度によるものではない仏教思想を根拠とした賎民制度が登場しています。

奈良時代におかれた身分制度は一般の人民にまで?

701年に制定された大宝律令によって、奈良時代の日本は律令国家として確立され、公地公民の制と租税徴収のための戸籍が作られ、班田収授法により、租庸調の税が徴収されています。

戸籍が作られたことで、一般の人民も良民と賎民に分けられ、賎民は五色の賎民と呼ばれる5種類に細分化され、非人道的な扱いを受けています。

良民には、租庸調の税が課され、防人と呼ばれる軍役も強いられるなど自由はなく、次第に良民ではなく賎民を選択する人民も増え、奈良時代の終焉とともに身分制度も崩壊を迎えます。

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