日本と中国大陸や朝鮮半島との関わりは、米作りが日本に伝わった弥生時代から始まっていて、青銅器や鉄器の生産、新たな焼き物技術など、多くの大陸文化が伝えられています。
古代大和朝廷の時代には、朝鮮半島から渡来したさまざまな技術者集団が組織され、各地に移住させて大陸の技術や文化が広がっています。
奈良時代を迎える前の飛鳥時代には、朝鮮の百済から渡来した五経博士により儒教が伝えられ、中国から朝鮮を経由した大乗仏教も百済から伝わっています。
飛鳥時代から奈良時代には、日本から積極的に遣唐使を派遣して大陸文化を吸収しようとしています。
奈良時代にみられる大陸文化の影響
奈良時代には、遣唐使の派遣や僧や貴族を唐に送るなど、大陸文化を積極的に取り入れる動きがみられます。
また、大宝律令による律令制や聖武天皇の鎮護国家を目指した国分寺や国分尼寺、大仏建立などにも、大陸文化のひとつである仏教を利用した国の安定がはかられています。
しかも、日本独自の文字が存在しなかった奈良時代に、唐から持ち込まれた漢字を日本語の発音にあてて表記する万葉仮名が誕生し、一部の貴族や識字層だけのものだった文字が、日本独自の文字文化として進化します。
シルクロードの終点となった奈良には、ペルシャ人が官吏としていたことを示す木簡も発見されており、中国を経由した大陸文化が渡来し、国際的な文化を生み出していたことが想像されます。
大陸文化の影響を受けた奈良時代の仏教美術
大陸文化の影響を受けた奈良時代の仏教美術の象徴ともいえる東大寺に建立された盧遮那仏の建立には、聖武天皇による「大仏建立の詔」がキッカケとなっています。
聖武天皇による大仏建立には、当時の日本が天然痘の大流行に見舞われ、大地震や天候不順による飢饉など、苦境に立たされていた状況を、仏教の信仰を通じて国を護ろうとする鎮護国家と災異思想のふたつが基盤となっていて、大陸文化として伝わった仏教の影響が大きくなっています。
金銅仏像として世界一といわれる奈良の大仏建立には、それまでに渡来した大陸の技術者たちが多く投入され、開眼式に向けては、中国の僧侶鑑真を招聘して本来の仏教を取り入れようとした姿勢が伺えます。
それに付随して、各地には国分寺や国分尼寺が数多く建てられ、その建築様式にも大陸文化を踏襲した仏教美術が取り入れられています。
唐の影響を受けた奈良時代の政治や文化
中国や朝鮮半島といった大陸文化の渡来が、狩猟時代から稲作文化へと移行した弥生時代以降の日本に多大な影響を与えていて、奈良時代の政治の根幹をなす大宝律令の制定をはじめ、平城京の街の作り方も唐を模範としています。
青銅器や鉄器、焼き物などの製作技術に加え、仏教の伝来は、聖武天皇が行なった鎮護国家政策にも多大な影響を与え、現存する多くの寺院や仏像の多くに大陸文化が感じられるものとなっています。