縄文時代から弥生時代、そして古墳時代と時代が移り変わりながら日本という国の形が徐々に形づけられていきます。
飛鳥時代と奈良時代の権力者たちは、いずれも天皇に権力を集中させた国家体制を築こうとした点は類似しているものの、大宝律令の制定が両時代の大きな違いです。
飛鳥時代という時代区分は、美術史や建築史で使われ始めた言葉とされ、日本史では、大化の改新以前と以後に分け、それぞれ飛鳥時代と白鳳時代と区分されています。
奈良時代に整えられる律令国家の体制の礎を作ったともいえる飛鳥時代と、白鳳時代に制定された大宝律令を含めた時代の違いを紹介します。
奈良時代の礎となった飛鳥時代とは?
6世紀ごろから豪族の影響力が強まり、反乱や豪族同士の争いが起き、蘇我馬子の台頭により、推古天皇による政治も蘇我氏の影響下で行われています。
推古天皇の政治を摂政として助けた聖徳太子は、天皇の権力を強めるための改革として、十七条の憲法や冠位十二階の制を制定しています。
聖徳太子の死後、蘇我氏の権力が強まりますが、645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我入鹿が殺害され、中大兄皇子らが権力を取り、大化の改新と呼ばれる政治改革がすすめられています。
大化の改新では、豪族や皇族が保有した土地を全て朝廷のものとする公地公民を行い、人民から税を徴収するために戸籍を作り、戸籍に基づいて人民に仕事を割り振り、徴税までつなげています。
奈良時代に確立された律令国家体制とは?
710年に奈良の平城京へと都が移され、長岡京、平安京へと遷都されるまでの約80年が奈良時代とされ、飛鳥時代との大きな違いは、大宝律令の有無にあります。
大化の改新以降、公地公民、戸籍の作成、租庸調の税制が確立され、701年に大宝律令が制定されたことで、奈良時代の日本は律令国家体制のインフラが整備されています。
奈良時代に確立された国家体制では、天皇を最高権威者とし、その下に太政官と神祇官の二官を置き、太政官の下に八省を配置し、地方は国と郡に分けられ、それぞれに国司と軍司が配置されます。
奈良時代には、飛鳥時代にはない刑罰の決まりである「律」と政治の決まりである「令」が、最高権力者の天皇によって運用され、大きな違いを生み出しています。
大宝律令の有無で違いがある奈良時代と飛鳥時代
飛鳥時代と白鳳時代に聖徳太子や中大兄皇子らが行った政治は、天皇に権力を集中させようとしたものの、基盤となる律令が存在しておらず、奈良時代には律令国家体制の基盤となる大宝律令が存在していたことが、大きな違いです。
飛鳥時代と奈良時代の権力者たちが目指した中央集権の国家体制や天皇に権力を集中させようとした政治改革の目的は同じで、律令国家体制を整えるための律令の有無がそれぞれの時代の違いであり、統治体制の違いにもなっています。
大宝律令の制定により、刑罰や行政の仕組み、税のあり方が明確化され、米を中心とした流通社会を構築した奈良時代は、日本のそれまでの古代国家との違いを形づけ、当時の中国大陸などの列強からの侵略に備えるための国家づくりを急いだ結果といえます。