奈良時代に平城京へ遷都したのはなぜ?理由は?

一般的に言われている奈良時代は、藤原京から710年に奈良の平城京に遷都されてから、794年に平安京へと遷都されるまでの時代とされています。

平城京に遷都される前の藤原京は、当時の天皇だった持統天皇により、唐の古典である周礼に基づいて、690年から4年間の工期を経て完成させた都です。

藤原京は、遷都を想定しない都として天皇の権威を象徴する都市が作られますが、なぜか、わずか16年で平城京へと遷都されています。

藤原京から平城京へと遷都された理由や、奈良時代に起きた遷都の理由などを紹介します。

奈良時代の始まりとなる平城京へ遷都された理由は?

唐の古典に基づいてつくられた藤原京が、なぜ、わずか16年で平城京に遷都されたかは、元明天皇が、「天皇自身には遷都する余裕はなかったものの、皇族らは地の相を占い京を定めることが重要だと主張し、皆の意見を無視できず、平城の地の相も良いため遷都すべき」といったような内容の発言を残しています。

元明天皇の言葉から推測される平城京への遷都の理由は、藤原京では疫病が蔓延したこともあり縁起が悪いとされ、平城の地が占いで優れた土地であるとされためと考えられますが、藤原京の完成後に派遣された遣唐使らによって、唐の都を手本につくられたはずの藤原京が、長安の現実とはかけ離れたものであると報告されたことも大きな理由のひとつとなっています。

しかも、唐の長安では皇居が都の北に配置され南に向いているのに対し、藤原京は都の中心に配置されている大きな違いがありました。

奈良時代の始まりとなる平城京への遷都の本当の理由は、元明天皇が残した言葉通りであれば、呪術的な判断による平城京の土地が良かったためとしか言及できません。

奈良時代に聖武天皇はなぜ、遷都を繰り返したのか?

藤原京以前には、歴代遷宮といわれる天皇の代替わりと共に宮も移動されていましたが、奈良時代の平城京への遷都以降は、天皇が住む宮を遷宮すると行政府もついてくるため、都も宮と一緒に移動する遷都が行われています。

奈良時代の都となった平城京は、聖武天皇の時代には、恭仁京、難波宮、紫香楽京、そして平城京と遷都と遷宮を繰り返しています。

聖武天皇が即位してから、政治の実権を握る長屋王が自害し、天然痘の流行により、藤原四兄弟をはじめ、重要な職位にあった高官の多くが亡くなり、さらに藤原広嗣の乱が起きます。

乱の最中に行幸を始めた聖武天皇は、なぜか平城京に戻らず恭仁京へ遷都を行い、その後目まぐるしく遷都を繰り返し、平城京に戻っています。

聖武天皇が遷都を繰り返した理由が明確にされた資料は残されていませんが、疫病の蔓延や藤原広嗣の乱、火災や大地震、天候不順による飢饉などが連続したため、災いの連鎖を断ち切り新たな世界と時代を切り開こうとする意思と「災異思想」が推測されます。

奈良時代の始まりとなる平城京への遷都と遷宮

藤原京から奈良時代の始まりとなる平城京へと遷都されたのは、土地の占いや、縁起が悪いなどが表面上の理由とされ、本当の理由は断言できません。

しかしながら、奈良時代の聖武天皇の時代に平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽京、そして平城京へと遷都と遷宮が頻繁に繰り返された背景には、天然痘の流行やクーデターなどの乱、仏教の影響があります。

これらの背景から、なぜ遷都されたかは、疫病の蔓延による都市衛生の悪化や人口増加による都市機能の移転なども理由として推測され、一つの理由に限定されることはないようです。

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