奈良時代におこなわれた外交

大宝律令が制定され、律令国家体制が確立された奈良時代を迎えるために、日本は聖徳太子が摂政だった飛鳥時代から、当時大国だった中国の隋、唐と外交関係をもっています。

また、朝鮮半島を統一した新羅や新羅の北に位置する渤海とも外交を行なっています。

奈良時代に日本が行なっていた三ケ国との外交について紹介します。

奈良時代に最も積極的に行われていた唐との外交

奈良時代に日本が積極的に唐に派遣した遣唐使には、唐の先進的な技術や政治制度、文化、仏教の経典を得ることが目的とされ、朝貢貿易と外交とが行われています。

朝鮮での白村江の戦いで日本が敗走した後には、遣唐使が唐との関係改善の役割を果たし、その後、遣唐使は原材料の朝貢品を献上し、唐からは高級な工芸品や絹織物といった返礼品を受け取っていて、物品は正倉院にも残されています。

遣唐使は四隻の船で渡航していたため、「よつのふね」と呼ばれ、日本から唐へは当初、朝鮮半島沿いの北路を経路としていましたが、白村江の戦いにより新羅との関係悪化に伴い、南西諸島沿いの南島路に変わり、航海技術の発達に伴い、直接渡海する南路の三つが取られています。

いずれの航路でも危険性は変わりなく、ちょっとした天候の崩れでも転覆が起きています。

そんな危険な航海でたどり着いた唐で、阿倍仲麻呂と藤原清河の二人は、唐の玄宗皇帝に気に入られて帰ることができず、唐に仕えて帰国していません。

奈良時代の朝鮮半島との外交で派遣された新羅使

奈良時代の日本が、最も積極的に派遣していた遣唐使ほどではないものの、壬申の乱を経て天皇となった天武天皇が新羅との関係を改善し、新羅から日本にやって来たのが新羅使で、668年から923年まで来ていて、日本からは遣新羅使が派遣され外交が行われています。

また、朝鮮半島の新羅の北、唐の北東に位置した渤海は、唐と新羅の脅威に備えるために、日本は良好な外交関係を選択しています。

渤海から日本にやって来た渤海使のために、日本は能登に能登客院、越前には松原客院、都には鴻臚館といった宿泊施設を作っています。

奈良時代に行われていた三ヶ国との外交

奈良時代の日本は、中国の唐、朝鮮半島の新羅、唐の北東に位置した渤海の三ヶ国との間で外交が行われています。

律令国家を確立するための政治制度や先進的な技術、仏教などさまざまな文化を日本に持ち込んだ遣唐使による唐との朝貢貿易と外交を主軸に、新羅と渤海とも良好な関係を維持するための外交が行われています。

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