飛鳥時代に全国の人民を戸籍と税の徴収のための計帳に登録したことで、律令制による支配を行う準備が整い、民衆に負担を強いる租庸調や兵役などが課されます。
大宝律令の制定により、天皇を中心とした中央集権の律令国家体制が確立され、奈良時代にはいると、班田収授法の制定により、戸籍に登録されたすべての人民には口分田が与えられ、税の徴収が行われます。
奈良時代の公民には、口分田の付与により、建前上は最低限の生活が保障されますが、その一方で、租庸調、雑徭、兵役などの重い負担が課せられています。
奈良時代の農民に課せられた租庸調をはじめとした重い負担の数々を紹介します。
奈良時代の農民に課された租庸調が導入されたのは?
日本で税制が導入されたのは、中大兄皇子や中臣鎌足らによって大化の改新の際に、中国の唐で完成した税制を参考に、日本の実情に合わせて改訂した租庸調が導入され、奈良時代に引き継がれています。
「租」は、地方行政を行う各国の役所に設けられた正倉に、農民から徴収した稲が蓄えられ、地方の財源とされています。
「庸」と「調」は、都に運ばれて中央政府の財源とされ、中央の財源とされ、租庸調の税制は、現代でいう国税と地方税に似ています。
また、稲による税の徴収は、天候などの自然状況に大きく左右されるため、歳入を安定させるために、「租」で集めた米を「種もみ」として農民に貸し出し、収穫時に利息をつけて返済させる「出挙」という貸し付け制度も行われるようになります。
奈良時代の農民が負担した税金には?
奈良時代の農民には、班田収授法の制定により、戸籍に記載された6歳以上のすべての男女に口分田が与えられ、その面積に応じて一律に賦課され、収穫の約3%が「租」として徴収されています。
「調」は、地方が中央政府に服属する儀礼として貢物を送るための税にあたり、繊維製品をはじめ、染料や塩、紙など、それぞれの国の特産物が徴収され、納税する農民のなかから運脚と呼ばれる人夫が選ばれ、都まで運んでいます。
「庸」は、地方の農民が都に上り中央政府が命じるさまざまな公共事業の労役の代わりに、布や綿、米や塩などを納める税で、「調」と同様に運脚によって運ばれます。
租庸調の徴税の他にも、農民には1里ごとに2人の割合で、都にのぼって中央官庁で労働にあたる仕丁や、各地の軍団に配属されて一定期間を兵士となる兵役なども課されていますが、その一方で、身分や立場といった条件によって、負担する税の免除なども設定されていたようです。
奈良時代の税制は、大化の改新以後の変革によるもの
奈良時代に農民に課された租庸調をはじめとした兵役や仕丁、水挙といった税や貸し付け制度は、大化の改新以後に行われたさまざまな変革が、律令制を確立させています。
政治的、社会的変革によって、天皇を中心とした中央政府による支配と権力の基盤を固め、農民の生活を安定させるための班田の付与と納税システムの両方が構築されています。