奈良時代の公卿だった藤原不比等とは?

奈良時代に確立される律令制の礎ともなった大宝律令や公地公民の制度のための戸籍は、飛鳥時代末期に制定や作成が行われています。

大化の改新に中大兄皇子と共に関わった中臣鎌足を父に持つ藤原不比等は、大宝律令の制作に関わったメンバーのひとりに抜擢され、奈良時代に入ると朝廷内の要職にまで上り詰めた人物です。

飛鳥時代の末期から奈良時代の初頭に、官僚として活躍し、平安時代に藤原良房によって始まる「摂関政治」の基礎を築いた藤原不比等の生い立ちや経歴、功績などについて紹介します。

藤原不比等の生い立ちは?経歴は?

藤原不比等は、中臣鎌足と与志古の娘との間の次男として生まれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて、公家の中でも太政官の最高幹部として国政を担った公卿まで上り詰めた人物です。

中臣鎌足といえば、飛鳥時代に権力を握っていた蘇我氏を倒すために、断行された大化の改新を中大兄皇子と共に遂行した人物で、天智天皇から新しい氏である藤原をもらい、藤原鎌足となっています。

鎌足の次男である不比等が、藤原の氏をついで「藤原氏」が誕生しているため、上級官僚から仕えていそうですが、大海人皇子と大友皇子の皇位をめぐる争いである壬申の乱で、敗北した大友皇子側についていた藤原不比等は、下級官吏から政治の世界に入り込んでいます。

壬申の乱の当時、藤原不比等はまだ若く、直接的に参戦していなかったこともあり、処刑や流罪といった処罰を受けることはありませんでしたが、優遇されることもなかったようです。

藤原不比等が奈良時代に残した功績は?

大化の改新での功績を誇る中臣鎌足を父に持ちながらも、下級官吏として政治に関わった藤原

不比等が草壁皇子に仕え、草壁皇子の息子だった軽皇子が文武天皇として即位するまでの皇位継承争いに貢献し、大宝律令を制定するメンバーの一人に抜擢されます。

藤原不比等が下級官吏から太政官の最高幹部となる公卿にまで上り詰められたのは、草壁皇子と文武天皇に仕えたことと、大宝律令を制定するメンバーに抜擢されたことで、実力を発揮したことにより評価を受けています。

奈良時代の天皇制では男系血統を重視していて、天皇の正妻にも皇族の血筋が求められていましたが、藤原不比等と持統太上天皇との密接な関係から、藤原不比等の娘である藤原宮子が文武天皇に嫁いでいます。

この婚姻により、藤原不比等は天皇の母方の一族である「外戚」となり、慣例的に外祖父が外戚の中で最も権力を持っています。

奈良時代に天皇と外戚関係を結んだ藤原不比等は、平安時代に藤原良房が始める「摂関政治」の基礎にもなり、藤原氏の繁栄のきっかけを作ったと言えます。

奈良時代に政治的な権力を強めた藤原不比等

奈良時代の律令制の基盤ともなる大宝律令の制定に関わるメンバーの一人となった藤原不比等は、父である中臣鎌足のコネを利用することなく、下級官吏から政治の世界へと入り、草壁皇子と文武天皇との出会いと、自らの実力を発揮して、一気に朝廷内の要職にまで上り詰めた官僚です。

しかも、藤原不比等は自分の娘を天皇に嫁がせて外戚関係を築き、政治的な権力を強め、平安時代の藤原氏の繁栄を生み出しています。

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