奈良時代の藤原仲麻呂が起こした叛乱とは?

奈良時代の政治における朝廷の権力者は、藤原不比等から長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄を経て、藤原仲麻呂、道鏡へと移り変わっています。

藤原不比等が天皇の外戚となったことが、のちの藤原仲麻呂が政治的な権力を握ることにつながり、陰湿な政治闘争が繰り返されています。

聖武天皇の逝去を受けて藤原仲麻呂の力が強くなると、橘奈良麻呂の乱が計画されるものの、計画が事前に露見し失敗します。

藤原仲麻呂の支援者であった光明子が亡くなったことで、その権勢にも陰りが差し、孝謙天皇の藤原仲麻呂排除の動きに対抗した叛乱について紹介します。

藤原仲麻呂が叛乱を起こすキッカケとなったのは?

奈良時代に天皇と外戚関係にあった藤原四兄弟が、長屋王の自殺により政治的な権力を握ったものの、天然痘によって亡くなり、橘諸兄が右大臣となります。

橘諸兄は、逝去する前に病気を患っていた聖武天皇に対して酒席で不敬の言を述べたとして、職を辞したため、天皇に藤原から嫁いだ光明子の後ろ盾もあり、藤原仲麻呂が政治的な権力を握り、橘奈良麻呂の乱を諜報活動によって防ぐと、乱に関わったもののを容赦なく処罰します。

藤原仲麻呂は、乱を利用して邪魔者だと思ったものまで粛清し、聖武天皇の皇后である藤原光明子の支援を利用して、藤原仲麻呂が思い通りになる淳仁天皇を即位させ、孝謙天皇は上皇となります。

しかし、藤原光明子が亡くなると、藤原仲麻呂に封じられていた孝謙上皇に道教が近づき、政界のパワーバランスが崩れ始めます。

藤原仲麻呂の叛乱計画と結果は?

道教を諌められた孝謙上皇は、道教に「小僧都」という僧侶の官職を与え、吉備真備も新たな役職に採用し、藤原仲麻呂の勢力の排除をはかります。

藤原仲麻呂の孝謙上皇と道教に対する叛乱計画は、孝謙上皇の咎を書面で告発して排除の大義名分を得て、畿内を自らの兵で掌握して孝謙上皇の逃げ道を防ぎ、逆襲を受ければ鎮圧するという計画でした。

しかし、藤原仲麻呂の計画は、孝謙上皇に筒抜けとなっていて、孝謙上皇は、奈良時代の天皇の権力を示す天皇御璽と呼ばれる鈴印を奪取して、「藤原仲麻呂は謀反を起こした悪しきものである」と鈴印を押した文書を出して陥れようとします。

そこで、上皇の親衛隊である授刀衛と山村王を淳仁天皇のもとに送り、鈴印を奪取し、藤原仲麻呂の支配地だった畿内の関所を閉鎖する命令書を送り、逃亡を阻止しています。

平城京から東へと逃亡し、近江、美濃、越前のいずれかを味方に付けるであろう藤原仲麻呂の行動は、兵法に長けた吉備真備が見抜いて軍勢の配置を指示しています。

吉備真備は、想定されるルートのうち不破関を遮断するために瀬田川を焼き落として、藤原仲麻呂が越前に向かうルートを愛発関に限定することで、戦力を集中投入しています。

畿内全体の兵を統率する総指揮官となった藤原仲麻呂が、圧倒的な有利な状況で叛乱に臨んでいますが、天皇の権力を示す鈴印を手にした孝謙上皇と高齢で藤原仲麻呂に疎まれた吉備真備がもつ兵法の知力が、藤原仲麻呂を敗北に追い込んでいます。

奈良時代の権力者の栄枯盛衰を体現した藤原仲麻呂

律令国家体制が確立した奈良時代には、天皇とその下で政治的な権力を握る権力者がいて、天皇の逝去や権力者の失脚によって、後継者争いが生じています。

天皇との外戚関係を築いた藤原不比等から、長屋王、藤原四兄弟への復権と天然痘による橘諸兄の登場といった栄枯盛衰が繰り返されていますが、その後に登場する藤原仲麻呂は、唐の律令制を模倣した大宝律令を養老律令にかえて完成形を目指した特徴がみられ、その経緯には栄華必衰を体現したような生涯となっています。

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