奈良といえば、東大寺に鎮座する大仏像を連想する人も多いと思います。
学校の歴史の教科書や資料集などでも、最初のほうに登場し、その姿は誰しもが知るところの大仏像ですが、奈良時代の聖武天皇が、なぜ巨大な大仏を作ったのか、どんな背景や経緯をたどったのでしょうか。
学生時代の修学旅行で訪れた人も多い東大寺と大仏像がつくられたキッカケやつくられた経緯などを紹介します。
聖武天皇によって東大寺がつくられた理由と背景
奈良時代の聖武天皇が天皇に即位した頃、巷では「伝染病」が大流行し、その後も天候不順による飢饉や地震などの災害が重なり、藤原広嗣の乱も起き、聖武天皇は平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮と転々としています。
聖武天皇は国内に続く災害や問題を、仏様に願えば仏様が国を守ってくれるという「鎮護国家」という思想と、国に起きる自然災害は、国を治めるものの政治が悪いことに対する天罰であるとする「災異思想」という二つの思想を持っていました。
しかも、聖武天皇と光明皇后の間には、基親王という男児が生まれていましたが、生後一年も経たずに夭逝したため、菩提を弔うために若草山に金鍾山寺が建てられます。
聖武天皇が、全国に国分寺や国分尼寺の建立を命じる詔を発すると、金鍾山寺は大和国の国分寺となり「大和金光明寺」と名称が変わり、大仏が建立される頃になると「東大寺」と呼ばれるようになっています。
東大寺に大仏像が建立された経緯
奈良時代の象徴的な存在となっている奈良の大仏ですが、当初は紫香楽宮につくられる予定でしたが、都が平城京へと戻ったことで、大和金光明寺に建立されることとなり、この頃から大和金光明寺が「東大寺」と呼ばれるようになります。
正式には盧舎那仏と呼ばれる奈良の大仏は、像の高さが約15メートル、幅約12メートルという世界一の大きさを誇る金銅仏で、現在ではセピア色をしていますが、創建当時は金メッキが施されていました。
創建時に必要な大量の金は、陸奥国の小田郡で黄金が発見されたため、輸入に頼ることなく、献上を受けて調達されています。
また、巨大な大仏像の建立を進めるために聖武天皇は、当時認めていなかった私度僧と呼ばれる正式な許可なしに出家した僧の行基を、大仏造営勧進という責任者に抜擢しています。
行基を責任者にしたのは、各地で貧民の救済や土木事業などを行い、民衆に絶大な人気があった僧だったためで、のべ260万人が関わった工事も無事に完遂され、開眼供養にも1万人以上が集まったと言われていますが、行基本人は大仏の完成を見ることなく、この世を去っています。
奈良時代を象徴する東大寺を生み出した聖武天皇
東大寺の前身となった大和金光明寺は、わずか一年で亡くなった聖武天皇の子供の菩提を弔うために創建され、大仏造営の時期から「東大寺」と呼ばれています。
奈良時代の聖武天皇が即位して続いた天災や伝染病、乱などの多くの問題を、鎮護国家と災異思想の二つの考え方をもとに、大仏の建立を命じています。
多くの民衆に支持を受けていた行基が大仏造営の責任者にして完成された奈良の大仏は、現在に至るまで、地震や戦乱による焼失や焼損にあいながらも、人々の想いによって現在も世界一の金銅仏として鎮座しています。