奈良時代と壬申の乱のかかわり

中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」が645年に起きて、およそ30年後に天智天皇の後継者をめぐり、大友皇子と大海人皇子との間で起きた後継者争いである「壬申の乱」が起きてきます。

古代史上最大の内乱といわれる「壬申の乱」は、その後、奈良時代に確立される天皇を中心とした律令国家のキッカケとなっています。

「壬申の乱」の原因や経過と共に、奈良時代への影響を紹介します。

「壬申の乱」が起きた原因

645年に起きた「乙巳の変」の後、蘇我家は滅び、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子として国政改革を進め、土地と人民の全てが天皇のものであるとした公地公民制をつくり、のちの奈良時代に施行される班田収授法の基盤となっています。

孝徳天皇が逝去したのちも、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を執り行い、近江大津宮へと遷都した翌年に、天智天皇として即位します。

現代の天皇の皇位継承には、天皇の嫡出子と限定されていますが、飛鳥時代の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはずでしたが、天智天皇は自分の子供である大友皇子を後継者にしようとし、次期天皇を意味する太政大臣に就任させています。

天智天皇の息子である大友皇子は、母親が采女と呼ばれる身分の低い女性だったために、そもそもの王位継承権自体がなかったため、天智天皇がゴリ押ししています。

身の危険を感じた大海人皇子は、天智天皇が強硬手段に出る前に、奈良の吉野で頭を丸めて僧として暮らしますが、天智天皇が亡くなると、朝廷の不安定な状況をみて挙兵し、「壬申の乱」が起きます。

「壬申の乱」の経過と奈良時代への影響

天智天皇が亡くなると、朝廷内のそれまでの不満が息子の大友皇子に向けられ不安定となり、その状況をみた大海人皇子は、天智天皇の死の翌年に挙兵し、吉野から伊賀、伊勢を経て、自国領の美濃に向かいます。

「壬申の乱」では、東国の豪族を中心に3万5千の兵を集めた大海人皇子と大友皇子が戦い、天智天皇の弟の大海人皇子が勝利し、朝廷内の状況を判断し先制攻撃を仕掛けたのが、大海人皇子の勝因です。

「壬申の乱」を武力で天皇の座を勝ち取った大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、天皇の権威と権力を絶対的なものとしています。

これにより、天皇に権力を集中させ、国の中央集権化が進み、律令国家が確立される奈良時代の基盤となっています。

奈良時代の律令国家体制のきっかけとなった「壬申の乱」

奈良時代の天皇を中心とした中央集権国家体制が確立されるきっかけは、飛鳥時代の大海人皇子と大友皇子が、王位継承をめぐる武力衝突を起こした「壬申の乱」と言われています。

「壬申の乱」で負けた大友皇子には、有力な勢力を持つ豪族たちがついており、そのため、有力豪族を排除し、権威と権力を強めた大友皇子は、朝廷内の絶対的な権威を握ります。

武力によって天皇の座を勝ち取った大海人皇子は、天武天皇となり、天皇の権威と権力を絶対のものにし、中央集権国家体制の基盤がつくられています。

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