奈良時代の天平文化における文化人

奈良時代は、日本が積極的に唐の政治や文化を取り入れようと遣唐使が派遣され、日本に持ち込み、天平文化が花開いています。

天平文化の名前の由来は、聖武天皇が政治を行った時代の元号である「天平」から来ていて、奈良の大仏を建立した功績とも相まって奈良時代を象徴する名称となっています。

奈良時代の天平文化には、唐の影響を受けた仏教に関する文化財が多く作られ、「日本書紀」をはじめとした多くの歴史書や、「万葉集」などの和歌集や漢詩などが作られています。

奈良時代の天平文化で作られた和歌や詩、歴史書、仏教などに関与した文化人を紹介します。

奈良時代と関わりが深い仏教に関与した文化人

奈良時代といえば、奈良の大仏を連想する人も多く、修学旅行で訪れた人も多いかも知れません。

日本に初めて仏教が伝わった飛鳥時代から、奈良時代の度重なる飢饉や戦さで疲弊した人民の状況から、仏教で国を鎮めようとする鎮護国家思想をもとに、聖武天皇が東大寺の大仏の建設を発願し作り上げ、天平文化の象徴的な文化人の一人と言えます。

また、行基は、一般の人民への仏教の布教が禁止されていた時代に、朝廷からの弾圧や禁圧を受けながらも、民衆の圧倒的な支持を得て逆境を跳ね返し、聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された文化人です。

そして、聖武天皇から中国から日本に招かれ、11年をかけ日本に渡来するものの、五度の失敗で失明した鑑真は、唐招提寺を建て、日本に正式な仏教を伝えた文化人です。

奈良時代に作られた和歌や詩、歴史書に関与した文化人

奈良時代に唐から伝えられた仏教の広がりもあり、貴族が漢字を学ぶようになり、日本の歴史書である「古事記」「日本書紀」が作られ、和歌を集めた「万葉集」や日本全国の地名や土地の言い伝えなどをまとめた「風土記」も作られています。

「古事記」は、天平文化以前に作られた歴史書の「帝紀」と「旧辞」を稗田阿礼が暗唱し、太安万侶が文字に起こしたと言われ、その後、日本書紀、続日本書紀、日本後記、続日本後記、日本文徳天皇実録、日本三代実録といった「六国史」が作られています。

現代の「平成」から新元号となった「令和」の文字が導き出された万葉集も、天平時代に大伴家持や橘諸兄が編纂した、あるいは勅撰によるものなど諸説があり、比較的長い期間に詠まれた歌を大伴家持がまとめたのではないかと考えられています。

いずれも、唐から伝わった漢字を利用して文字に起こした多くの文化人の功績が、天平文化の文学や歴史的な評価となっています。

奈良時代の天平文化の根底にあった鎮護国家思想

奈良時代に天平文化が栄えた状況には、仏教の教えで国の乱れをおさめ、平和を守ろうとした鎮護国家思想が基盤にあり、唐からの仏教が文化に大きな影響を与えています。

そのため、天平文化の繁栄をもたらした文化人には、聖武天皇をはじめとして、行基、鑑真といった僧侶が筆頭に挙げられ、「万葉集」「古事記」「日本書紀」などの文学や歴史的な書物に関わった稗田阿礼、太安万呂、大伴家持、橘諸兄なども挙げられます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする