奈良時代に規定された僧尼令の背景と実情

飛鳥時代に仏教が伝来するまでの日本では、ありとあらゆる自然物に「神」が宿るとした「八百万の神」を信仰の対象としていて、人に近い姿の仏像と仏様を信仰の対象として受け入れるには時間を要しています。

日本初の寺院として飛鳥寺が建てられ、次第に受け入れられた仏教は、大化の改新後の蘇我氏没落には、国家の平安を祈る鎮護国家仏教の性格を強めて行きます。

奈良時代に入る少し前に即位した天武天皇が、諸国の豪族は仏舎を作り仏像と経典を置き、礼拝しなければならないと命じたことで、仏教を保護する流れが決定づけられます。

奈良時代に入ると仏教を保護しながらも、律令制の中の僧尼令で、僧や尼となるには国の認定が必要とした統制がかけられます。

奈良時代に規定された僧尼令とは?

奈良時代の律令制を確立させた大宝律令に、律令の編名で僧や尼に関する行政と刑罰を定めた規定が「僧尼令」と呼ばれ、養老律令では27条からなる行政規定と刑罰規定に大別された構成で作られています。

「僧尼令」では、偽りの災いや幸せを説いて国家を問いただして百姓を妖惑するといった国家への反逆行為、小動、巫術などの僧や尼に固有の犯罪とそれに対する罰が規定され、行政などを定める「令」としながらも、刑罰を定めた「律」に準じた性格の法令となっています。

仏教が伝来した当初の僧は、ほとんどが大陸からの渡来僧でしたが、時が経つと共に、出家者が増えたため、政府が増加する僧や尼を管理統制するために作られた僧尼令は、僧や尼の犯罪に判断を下せる僧正と僧都が設置され、実態調査の結果から制度化された僧綱制と共に継承されています。

僧尼令による統制の例外となった僧侶には?

奈良時代の歴代の天皇は、天武天皇の仏教を保護する流れを継承し、聖武天皇の時代には、鎮護国家を具現化する国分寺や国分尼寺が諸国に作られ、東大寺には巨大な大仏像も建立されています。

その一方、律令制が確立した奈良時代には、僧や尼は政府の認定を受ける必要があり、私度僧は認められておらず、僧尼令による統制もすすめられていましたが、行基のように、民衆への布教とともに用水施設や交通路沿いに救済施設を作るなどの公共工事を行い、国家の弾圧を受けながらも民衆から支持された僧もいます。

聖武天皇が「大仏建立の詔」を発して、造営にあたる責任者の選出では、私度僧であることを黙認しても庶民の支持を得ていた行基が招聘されています。

奈良時代の仏教の保護と僧尼令による統制

飛鳥時代に伝わった仏教は、国家の平安を祈る鎮護国家仏教の性格を強くし、奈良時代の歴代の天皇は仏教を保護しながらも、渡来僧以外にも出家する僧や尼の急増による統制と管理のために「僧尼令」による統制も強めています。

奈良時代の僧侶や尼は現代とは違い、国家公務員的な立場があり、その犯罪の取り締まりや罰則にも一般庶民とは違うルールとやり方が工夫されています。

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