奈良時代の防人とは?役割は?

1980年に公開された映画「二百三高地」の主題歌となった、さだまさしさんの「防人の詩」という曲をご存知だろうか。

この曲の歌詞は、奈良時代の末期に作られた「万葉集」を基に、命の尊さを切々と歌い上げられた究極の反戦ソングに仕上がっています。

日露戦争をテーマとした映画の主題歌でありながら、万葉集を基に歌詞が生まれたのには、飛鳥時代から奈良時代にかけて九州北部の沿岸防衛のためにおかれた防人と日露両軍の兵士たちと家族たちの心情が察せられるようです。

奈良時代に九州北部の辺境防備に連れてこられた防人について紹介します。

飛鳥時代から奈良時代に配置された防人とは?

飛鳥時代の日本と友好関係にあった朝鮮半島の百済が唐に滅ぼされかけ、援軍を送った日本は、唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北を期し、敗走しています。

友好国のためとはいえ、大国となっていた唐に攻撃を仕掛けたため、唐からの報復攻撃を恐れた孝徳天皇が、九州北部の沿岸防衛のために「防人」と呼ばれる兵をおいています。

大宝律令が制定され、奈良時代となっても、辺境防備にあたる兵の防人は継承され、関東や東北から強制的に農民たちが3年の任期で赴任させられますが、延期されることも多く、装備や往復の交通費の支給はなく、赴任中の給料もなく、経費はもちろん自己負担が強いられ、赴任中の税が軽減されることもないという選ばれた農民にとっては、負担の大きな制度でした。

唐の兵が屈強であったために、関東や東北の農民が選抜されたとも言われていますが、防人の待遇をみれば、朝廷が脅威を感じていた東国の影響力を削ぐ目的だったのではないかと思われます。

奈良時代の防人とその家族の心情が残された「万葉集」

九州北部の沿岸防衛におかれた防人たちは、前述のような負担を強いられ、3年の任期が終わったとしても帰るとしても、帰路に必要な食料やお金が与えられることもなく、帰路の途中で絶命する者も多かったようです。

「ひなくもり 碓氷の坂を 超えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも」といった歌には、薄日が射す碓氷の坂を越える時に、妻が恋しくて忘れられないといった妻への思いが詠まれています。

このような防人の悲哀が詠まれた歌をはじめ、徴用された兵や家族、残された家族の無事を祈る気持ちや寂しさが詠まれた切なくて悲しい歌が100首以上集められ、奈良時代の「万葉集」に収録されています。

強制的に連れて来られた防人たちの心情と、国家の命令で戦場に駆り出された二百三高地での兵士たちを重ね合わせて、さだまさしさんの「防人の詩」も生み出されています。

奈良時代の九州北部防衛のためにおかれた防人

日本の友好国だった百済に援軍を送りながらも、唐と新羅の連合軍に敗走を期した飛鳥時代の日本は、唐からの報復攻撃に備えた九州北部沿岸の防衛のために、防人を置いています。

西国の人よりも屈強とされた関東や東北の農民が強制的に連れて来られ、何もかもに自己負担が強いられる過酷な労働が任期中続き、生きて帰れる人は少なかったと考えられます。

そんな過酷な境遇を強いられていた防人たちが心情を詠んだ歌が、奈良時代に作られた「万葉集」に収録されています。

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