奈良時代に制定された大宝律令の内容や制定の理由

文武天皇によって発令された詔で、飛鳥浄御原令が編纂され、持統天皇の時代に施行されますが、日本の実情に合わず、そのまま律令の編纂が継続されます。

奈良時代となる少し前の701年に制定された大宝律令は、刑法にあたる「律」6巻と行政法や民法にあたる「令」11巻で構成され、唐の律令制を参考に作られ、日本の実情にも合わせた内容が盛り込まれています。

飛鳥時代から奈良時代を迎える日本には、朝鮮半島での百済の滅亡により、唐と新羅の信仰の可能性が危惧され、国内の統治能力を高めるために天皇を中心とした国家体制の確立が急がれました。

奈良時代の中央主権国家の確立のために作られた「大宝律令」がいかに制定され、法律の内容について紹介します。

国家体制を確立させた大宝律令の制定に関与したのは?

飛鳥時代から奈良時代にわたって律令国家としての基盤となる大宝律令の編纂には、天武天皇の第9皇子である刑部親王と中臣鎌足の次男にあたる藤原不比等の二人があたっています。

平城京に遷都され、奈良時代を迎える前に制定された大宝律令は、奈良時代に養老律令が施行されるまで、天皇を中心とした中央集権国家の基盤法律として使われています。

大宝律令の編纂に携わった藤原不比等は、大化の改新での功績を誇る中臣鎌足を父に持ちながらも、下級官吏から朝廷に関わり、持統天皇の抜擢を受けて大宝律令の編纂の功績から出世するとともに、娘を天皇家に嫁がせたことで天皇家の母方の親戚隣権力を握り、奈良時代の養老律令の制定にも関与しています。

大宝律令に定められた内容とは?

刑部親王と藤原不比等によって編纂された大宝律令には、刑罰の内容を定めた「律」と中央集権国家の組織体系や徴税する税金の種類などが定められた「令」があります。

「律」に書かれた刑罰には、笞、杖、徒、流、死の5つが定められ、刑罰が科される者が、たとえ地位の高い者であっても許されない重い刑罰が、「八逆」として定められています。

刑罰の笞と杖には、刑の重さによって竹の太さの違う鞭や棒で臀部や背中を叩く回数が段階的に定められ、徒には、5段階に分けた懲役が定められ、流には、罪の重さに分けた島流しの規定が示され、死には、絞首刑と首切りの二種類の死刑が規定されています。

一方、「令」には、天皇を中心とした中央政府の組織となる二官八省の官僚体制が規定され、その下の部署も定められ、地方政治に必要な国郡里制が明記されています。

中央組織の総括に太政官と神祇官の二官が置かれ、中務省、式部省、大蔵省、民部省、宮内省、兵部省、刑部省の八つの役所がその下に置かれ、その下にも小さな役所が配置されています。

国郡里制をとった地方行政には、国司、軍司、里長が置かれ、一般人民には、良民と賎民の区別がなされ、戸籍に基づいた徴税がなされています。

大宝律令の制定により、飛鳥時代末期から奈良時代の日本は、天皇を中心とした律令体制が確立され、戸籍に基づいた徴税システムが構築されています。

大宝律令の制定で日本は古代国家から脱却した?

唐や新羅からの侵攻が危惧され、日本の国力を強化する目的で制定された大宝律令は、天皇を中心とした律令制を確立し、一般庶民からの徴税システムも構築しています。

飛鳥時代の末期に制定された大宝律令は、奈良時代の中盤に施行される養老律令の登場まで、日本における刑罰の内容や行政が行われる組織やルールとして利用されています。

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