奈良時代の藤原広嗣が起こした乱とは?

奈良時代の政治は、飛鳥時代末期に藤原不比等らが制定に関与した大宝律令に基づいた二官八省の行政組織が天皇の下に配置され、朝廷の「権力者」と「天皇」が権力を握っています。

下級官吏から大宝律令の制定メンバーに抜擢された藤原不比等は、文武天皇の即位に貢献し、天皇と外戚関係を築いて、政治的な権力を強くしています。

藤原不比等が亡くなると、長屋王が政治的な権力を握りますが、藤原不比等の四人の息子たちが長屋王を自殺に追い込んだとされる事件が起き、藤原四兄弟がそれぞれ重要な政治的な地位を占め権力を握ります。

藤原広嗣は、藤原四兄弟の三男にあたる宇合の息子にあたり、地道に官僚として歩みますが、政権への不満から反乱を起こしています。

藤原広嗣が政権に不満を抱いた背景と理由は?

奈良時代の律令制の裏付けとなる大宝律令の制定に関わり右大臣となった藤原不比等を祖父に持ち、朝廷の要職に就いていた藤原宇合の長男として生まれた藤原広嗣もまた、官僚として地道に出世コースを歩みます。

長屋王が自殺し、藤原四兄弟が天皇と政治的な権力を握っていたものの、藤原広嗣の父である宇合を含めた藤原四兄弟が天然痘によって亡くなり、右大臣となった橘諸兄は、「吉備真備」と「玄昉」を重用し、欠員となった官僚も補充します。

藤原広嗣は、「吉備真備」と「玄昉」が出世したことに不満を抱き、自らは素行の悪さから平城京から大宰府に左遷されたと感じていたため、聖武天皇あてに二人の排除と自らを要職に就けるように望んだ上奏文を送ります。

この上奏文を受け取った聖武天皇は、国家転覆をはかった謀反とみなし、即座に軍隊を送り藤原広嗣を討伐する命令が出され、これに対抗した藤原広嗣が反乱を起こしています。

藤原広嗣が起こした反乱の経緯と結果

「吉備真備」と「玄昉」の排除を訴えた上奏文を送った藤原広嗣は、聖武天皇からの返事が届く前に総勢1万の兵を集めて九州で挙兵します。

一方、上奏文を受け取った聖武天皇は謀反とみなして、即座に、大野東人に官軍一万七千の軍勢を率いらせて藤原広嗣の討伐をはかります。

一万七千の官軍のうちの六千の兵が、現在の福岡県北九州市の板櫃川で激突し、藤原広嗣の軍勢が敗れて、値嘉島へと逃げようとしますが、西風が強く戻されてしまいます。

再び値嘉島に漂着した藤原広嗣は、潜伏しているところを捕縛され、現在の佐賀県唐津で、官軍の大野東人によって斬られ、関係者も流罪などの処分が科されています。

「藤原広嗣の乱」にみられる奈良時代の律令制の確立

奈良時代に起きた「藤原広嗣の乱」は、橘諸兄が右大臣として重用した吉備真備と玄昉の排除を求めた藤原広嗣の上奏文がキッカケとなっています。

上奏文を受け取った聖武天皇が、即座に官軍を送り、わずか2ヶ月で藤原広嗣の反乱軍の鎮圧しますが、その後、鎮護国家思想を強めた聖武天皇が国分寺建立を決めたり、遷都を繰り返すなど影響を受けています。

その一方で、飛鳥時代末期に制定された大宝律令に従って、奈良時代の律令国家体制が確立されていたことも証明されています。

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