奈良時代での馬の用途とのかかわり

日本に馬が渡来したのは、4世紀末につくられた古墳などから馬骨や馬具が確認されていて、古くても弥生時代末期ではないかと考えられています。

馬具の出土から、乗馬の風習についても4世紀末から5世紀初頭ではないかとされ、馬事文化が大陸から日本へと伝えられたとされています。

5世紀初めには馬形埴輪があり、仁徳天皇陵の副葬品として馬具が出土していて、日本書紀や古事記にも、馬にまつわる記述がみられます。

飛鳥時代から奈良時代には、さまざまな形で利用されていた馬との関わりを紹介します。

奈良時代以前の馬の用途は?

奈良時代となる前の飛鳥時代には、馬を軍事、輸送、農耕といった用途で利用されていて、当初は儀礼用を含んだ軍事を主目的に利用されています。

首長などが亡くなると愛馬を殉葬する風習もあったことを示す埋葬馬も確認されていますが、その後、埴輪馬が葬られるようになっています。

大化の改新以降、公的な通信手段として馬が利用され、駅馬、伝馬といった制度も作られています。

日本が、朝鮮の百済救済のために出兵して、新羅と唐の連合軍に敗走したことをきっかけに、馬の軍事利用が検討されています。

奈良時代の馬とのかかわり

奈良時代にはいると、国営牧場の官牧や、諸国に置かれた国衙が管轄する国牧も設置され、兵部省にも馬寮が設けられています。

律令制のお手本とした中国の唐では、遊牧民出身の軍事集団が構成され、軍馬の利用も進んでおり、それら最先端の軍事技術の導入も図られています。

そのため、奈良時代を迎える準備段階にあった「壬申の乱」においても、置始兎が率いた千余騎、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立っています。

藤原宮跡からは、酷使されて関節部に癒合や肥大が見られる馬の骨が見つかり、宮の造営にも馬が利用されていたと推測され、一方で、食用とした痕跡も残されています。

奈良時代の天武天皇の時代には、馬の肉食禁止令が出されていますが、その効果は得られていません。

奈良時代の馬は、通信手段から軍事目的に転じて利用された?

大陸から渡来した馬は、飛鳥時代から奈良時代になると、律令制をお手本とした唐で軍事利用されている技術を参考にして、兵部省にも馬寮が設けられています。

壬申の乱に活躍した置始兎が率いた千余騎、勇士来目らの騎馬などからも、馬の主たる用途が、軍事目的に特化されていきます。

その一方で、馬肉を食する食文化も奈良時代にはみられ、肉食禁止令が天武天皇の時代に出されています。

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