奈良時代にあった国郡里制とは?仕事のやり方への影響は?

日本が天皇を中心とした中央集権国家体制を確立した奈良時代以前の古墳時代や大和朝廷の時代には、それぞれの地方で多くの土地や財産、配下の私兵を持って支配権をもった豪族が点在していました。

江戸時代でも地方の名士や豪農なども総称して呼ばれることもありましたが、地方の首長にあたる権力を恣意的に握っていた古代の地方行政を、中央政府が律令に基づいた統治をするために、奈良時代に国、郡、里という行政単位が作られています。

奈良時代の国、郡は、現在の都道府県、市区にあたり、里は町村程度の小さな集落に相当すると考えられ、それまでの豪族による地方統治を中央政府が管理監督できるしくみに変えています。

奈良時代につくられた国、郡、里の地方行政区分

大宝律令の制定によって、奈良時代にはいると天皇を頂点とした中央には二官八省の行政組織がつくられ、地方には国、郡、里といった行政区分が設けられます。

現在の日本にある地方行政区分に類似した国、郡、里は、それぞれ都道府県、市区、町村といった区分に相当し、国司、郡司、里長が置かれる国郡里制と呼ばれる制度がつくられます。

政治や行政の権力を中央政府と天皇に集中するために、それまで地方の豪族が支配していた地域を管理監督する責任者として、中央の官僚を国司として任地の国に赴任させ、地方に勢力を持っていた豪族を郡司に任命して国司の下で郡の政治や行政の実務にあたらせています。

さらに、五十戸程度で構成された里には、統率者となる里長を置き、人民に最も近い末端の行政にあたらせていますが、里がどの程度の行政機能を果たせたかは、よくわかっていません。

奈良時代の国郡里制で行われた地方行政の功罪とは?

奈良時代の地方行政に国郡里制が導入されると、それぞれの地方で勢力を持っていたその土地の豪族が基本的には郡司に任命され、郡よりも広域な地域を監督する国司が中央から任命されて赴任しています。

地方の豪族がそれまで持っていた伝統的な勢力と地域の伝統的な権力行使が継続され、郡司と国司による二重支配の様相を呈した状態が、制度発足当初から続きます。

そのため、行政的には国司の下で仕事をする郡司を務める豪族のその地域での政治的な権力を削ぐために、郡を分割したり、国司の推薦による郡司の登用をはかるなど、特定の郡司への勢力が偏らないための政策などが工夫されて行われています。

古代から続いた各地方で勢力を持った豪族による独自の行政システムは、国司、郡司、里長の登場と共に現代に似た地方行政へと姿を変えています。

国郡里制での地方自治に必要な法令を条文化することに関しても、すべてが中央政府による決定だったことが現代との大きな違いといえそうです。

奈良時代の国郡里制は、現代の都道府県や市区町村と似ている?

大宝律令が制定されたことで奈良時代の地方には、現在の都道府県にあたる国、市区にあたる郡、町村にあたる里が置かれる国郡里制のもとで政治行政が行われています。

朝廷から任命された国司が任地となった国の統治にあたり、各地にいた有力豪族が郡司として国司のもとで政治や行政の実務にあたっています。

現代の都道府県と市区町村との関係性に似た状況が、奈良時代の国郡里制でも想像され、律令制をもとにつくられた地方の区分と行政の基本的な仕組みは、現代で構築されている地方行政区分や行政のやり方と違和感がありません。

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