奈良時代に導入された雑徭とは?

奈良時代の平城京には天皇をはじめ、貴族、役人、庶民など約10万人の人が暮らしていたと言われますが、遷都された当初の平城京は、内裏と太極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられていて、段階的に整備する必要がありました。

そのため、平城京の庶民には、完成していない都の工事や寺院の建設などの労役に駆り出されることが多かったと考えられ、本来化される租庸調の税制のうち、調や庸が免除されています。

その一方で、地方に暮らす庶民には、地方の財源となる班田から収穫された稲に課される「租」の納税と、中央政府に納める「庸や調」の納税が課され、兵役や雑徭といった労役がありました。

奈良時代に農民が負担した雑徭とは?

律令制が確立した奈良時代に、地方で道路や堤防、官舎の建設や修理など、肉体労働を必要とするとき、成年の男子には無償で労働につく義務となる「雑徭」や「歳役」が課されています。

「雑徭」は、律令制において、君主や地主が土地経営やその他の必要性から権威や武力などをかざして、人民を無報酬で働かせる強制労働で、歳役は「庸」によって物納されています。

「雑徭」は中国の律令制では年間50日以内とされた制度を、日本では60日以内として継受され、飛鳥浄御原令で制度化され、国司や郡司によって徴発されました。

地方の豪族がそれまで地域社会に必要な労働力を独自に徴発してきた労役とは違う、中央政府が朝廷のために課した労役だったと考えられます。

奈良時代の雑徭の制度は?

奈良時代の雑徭は、戸籍に記載された17歳以上の男子に、一年のうち60日を限度に国のために無償で働かされる強制労働で、国司や郡司が権威を振りかざして徴発し、国のインフラ整備に必要な労働力を確保していたと考えられます。

農民には、この他にも1戸あたり1人が徴兵される兵役や50戸あたり2人が徴発される仕丁などの労役も課されていました。

本来、中央政府に納める庸や調の税については、雇役を前提として、絹や糸などを納める「調」は通常の半分、「調」に付随して課される少量の調副物や「庸」のすべてが免除されています。

奈良時代の雑徭は、農民に課せられた重い負担のひとつ

中国の唐に確立された税制を見習ってつくられた奈良時代の日本の徴税システムでは、庶民に租庸調の税の負担が求められ、その他にも雑徭や兵役といった負担も課されています。

現在の貨幣経済が確立されていない時代の納税には、稲や地方の名産品や特産物といった現物納税や、国のために働く労務を提供するなど、さまざまな税が定められ、一般庶民にあたる農民には重い負担が課せられています。

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