奈良時代における太宰府の役割

現在の福岡県太宰府市といえば、菅原道眞公をお祀りする太宰府天満宮で有名な土地ですが、奈良時代から平安時代には、朝鮮に対する軍事拠点として重要な場所でした。

「ダザイフ」の表記は、現存する古代の印影には「大宰府」が確認されていて、正式には「大宰府」と考えられていますが、奈良時代の文書には「太宰府」も確認でき、いずれの表記が正しいのかは、現在でも明確な判断はされていません。

九州大学の鏡山猛教授が、昭和30年代末に、地名や天満宮以外は「大宰府」と表記されていたとする説により、現状でも、律令時代の役所や移籍に関しては「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されています。

ここでは、「太宰府」の表記に統一したうえで、奈良時代に九州北部の重要拠点とされた太宰府について紹介します。

奈良時代に太宰府が置かれた理由と時代背景

奈良時代の都だった平城京と同じ条坊制を布き、水城や大野城、基肄城に護られた防衛都市が九州の北部に位置する太宰府に置かれたのには、朝鮮半島の状況と日本の外交関係が影響しています。

奈良時代となる前の朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国が勢力争いをしていて、新羅が他の2カ国に圧迫される状況で、中国の唐が新羅を冊封国として支援し、百済が滅亡し、百済からの救援要請に対して中大兄皇子らがこれに応じ、百済からの難民を受け入れ、唐と新羅との対立を深めています。

白村江の戦いで敗走した日本は、日本列島が海外からの侵攻を受けて占領下におかれる危険性が高まり、唐や新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇が、北部九州の太宰府に水城や防人を配備しています。

奈良時代の太宰府の役割とは?

飛鳥時代に起きた白村江の戦いによる大陸などからの侵攻に備えた天智天皇が置いた太宰府は、大宝律令により奈良時代には、二官八省の組織が配置された際には、特別の役職として置かれます。

奈良時代に課せられた兵役には、軍団、衛士、防人の三種類があり、太宰府で九州北部の警備にあたる防人には3年間の期間が課せられています。

太宰府は、平城京と同様に碁盤の目のように整然と街が整備され、博多湾側には水城と呼ばれる堅固な城壁があり、政庁の背後には大野城が作られた軍事拠点の様相も呈していました。

飛鳥時代の白村江の戦いでつくられた太宰府

朝鮮半島にあった高句麗、百済、新羅の三国における対立に、中国の唐が関わり、その影響で、当時の日本が白村江の戦いに派兵することとなります。

朝鮮出兵をした日本が白村江の戦いで敗走し、唐との関係悪化が懸念され、朝鮮からの侵攻も懸念されたため、天智天皇が太宰府に軍事的な備えを行なっています。

大宝律令が制定され、律令制が確立された奈良時代には、中央には二官八省の政治組織が構築され、地方には国司と郡司がおかれ、九州北部の重要な拠点である太宰府にも平城京と同様な街が形成されています。

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